誰もが必ずぶつかる問いである、
自分とは誰か?という問い。
しかし、ほとんどの人はそんなものには答えが無いと諦めてしまう。
それもそのはずである。
何故ならば、この国には自分が誰なのかという事を知っている人はほとんどいないからである。
私は子供の頃からこの答えを見いだすべく人生の全ての時間を費やしてきた。そして、その答えを見つける事が出来た。感謝すべきは私がインドやチベットで10年以上にわたって修行する事が出来た事である。私はその国々で、多くの自分とは誰かという事を知っている人達と交わってきた。答えを持っている人達との交流は、そこに答えが在る事を私に証明してくれた。だからこそがんばってくる事が出来たのだ。もし、私がただこの国にいたならば、きっと諦めていた事だろう。
もし、自分が誰なのかという事に対して答えが無いと思いこんでしまっている人がいるなら、
私は諦めないで欲しいと思っている。
何故ならば、あなたはそれに対しての努力を何もしていないからだ。
自分が誰なのかという問いは人生究極の問いである。その問いに数ヶ月や数年で答えが出るわけが無い。また、それに対しての代償も支払っていないなら、なおさらのことである。
ただ悩んでいるだけでは、また、ただ考えているだけならそこには答えは無い。
エゴこそが出口の無いパラドックスであり、それは思考である。それを沈める事の訓練は必須である。修業時代の私は毎日数時間。多くて10時間以上もの時間を瞑想、座禅に費やしてきたし,チベットではいつ終わるとも知れない五体投地の修行を一日中やったものである。
そして、その代償として、私は自分が誰なのかという答えを得る事が出来た。
実行してみれば、解決の道はどの道に於いても存在している。
だから諦めない事である。
だが、自分が誰なのかという問いに対する答えは必ずしも修行の結果ではない。何故ならば、これは純粋に恩寵だからである。しかし、だからといって、だらだらと待っているだけでは答えはやって来ない。実際の真剣なる取り組みだけが要求される。
真理という答えは、コンビニやスーパーマーケットで手に入れる事は出来ないのだから。
私のチベットの師の一人は、ある時、アメリカの大富豪から教えを売ってくれと頼まれた事があった。その時彼が持参したお金はトランクケース2個分だったといわれている。しかし、それに対する師の返答は「金は要らない。もし私から教えてもらいたければ、今からする私の糞を食え」と言った。まさに糞喰らえ!本当に糞を食えと言う意味ではない。覚悟を見せろ。という意味なのである。支払うべき真の代償を払えるかどうか試したわけである。
時として、真理というものを体得している人は常人には理解出来ない事をしたり,言ったりするものである。しかし、師達が求めているのはただひたすら、真剣であるか。どうかなのである。
そして、真剣にその答えを求めているものには、その答えは向うからやって来る。
その答えは私達に見つけられるのを待ち続けている。
たとえどれだけ時間がかかろうとも・・・。
それは辛抱強く私達がそこに到達するその日を待ち続けているのだ。